03 Nov 2003
城は平静を失っていた。城中の音が聞こえないほど離れているこの岡の上からも、日頃人の気配が少ない天守の窓に、右往左往する侍たちの行灯の明かりが見え隠れするのが分かる。その様子を、林の中からうかがっていたコギリは、ふう、と息をついて、大きな体を揺らしてのそりと道の真ん中に座り込んだ。城からは目を離さず、懐に手を入れ、取り出した獲物を地面に並べ始めた。苦無と呼ばれるそれらの柄つきの刃物は、黒錆を植えつけて光らないようにしてあるが、どれも鋭利で、熟練者によって放たれれば体に深く突き立つだけの十分な重さもある。
「コギリよ、死ぬるつもりか」
別の男が静かに近づいて言う。コギリと同じ、黒の上下装束に身を包み、同じように城から目を離さない。
「掟だ。俺のしくじりで、もうあそこには容易に入り込めぬ」
コギリが伸ばした手に、さらに別の男が竹筒を数本手渡す。そのどれからも導火線が伸びている。
「惜しいぞ。誰か別の未熟な者に責めを負わせても良いのだ」
そう言われてもコギリは手を休めない。
「そうもいかん。俺も以前、掟通りにしくじった手下を一人斬っている」
だが、それに答える声はすでになく、早くも道の先からは犬の声と松明の明かりがちらつき始めた。コギリは、苦無に手を伸ばしながら、身を伏せて足元の闇に沈み込んでいった。
コギリを残してひたすら闇を走り続ける男たちには、犬の声も人の叫びも聞こえなかったが、しばらくしてパンパンという鉄砲の音に続いて、ズンと響く火薬の音がしっかり聞こえた。コギリが火術を使ったのだ。はたしてどれほどの追っ手を討ち果たしたかはわからないが、十分時間稼ぎにはなってくれるだろう。忍びたちの殿(しんがり)を走りながら、先ほどコギリに話しかけた男は考えていた。コギリはできる忍びだった。体格に恵まれていたこともあったが、いつも術の工夫を忘れぬその様子は、まるでこの務めが好きなのではないかと思わせるほどだった。それだけに、あるいは追手を打ち果たし逃げおおせるのでは、という考えが一瞬浮かんだが、それもすぐ頭からふりはらった。仮に生き延びて戻っても、役目をしくじったコギリの命はない。命を捨てて仲間を里へ戻し、次の機会を狙わせるほうが理屈に合っている。忍びならそう考えるはずだ。
男たちはなおも走り続けたが、やはり追手の気配はない。そのことがまたコギリの死を確かなものに思わせた。ここまでくれば後は楽な道だ。役目をしくじったくらいだから、持ち帰らなければならない物もない。まもなく手引きの者と落ち合って装束を着替え、この地を離れることが出来るだろう。男たちはいつしかナンバ走りの歩を緩め、そう思っていた。
コギリは生きていた。仲間を先にやり、追手を待ち構えていたコギリは、伏せた姿勢から苦無を放ち、駆けつける城中の追手たちの先頭とその次の者の胸に一本づつ突き立てた。
「待ち伏せだ!」
追手は互いにそう叫ぶと、周囲の森の中へ向けてやみくもに鉄砲を放った。自分たちを襲ったものが、すぐ目の前の道のど真ん中に伏せているなどとは思わない。一斉に剣を抜き放ち、周囲の林の暗がりの奥を透かし見ようとしている。
コギリは、ひと呼吸でその場から跳ね起き、一番近い男に体ごと当たると同時に、わき腹に苦無を押し込んだ。力を失って倒れこもうとする体を腰帯に手をかけて支え、体ごと追手たちの中へ飛び込む。ちょうどその時、火薬の筒が破裂した。さっきまでコギリが覆いかぶさって、導火線の火花が見えないように隠していたのだ。しかけたコギリは爆発の時に追手の真ん中に飛び込んでいたせいで、吹き飛ばされたものの怪我はなかったが、まわりの男たちは、爆発で飛び出した鉄片を体中に食い込ませ、うめき声をあげて転げまわった。
コギリはゆっくり起き上がると、ひとりひとり倒れている侍たちの首に足を乗せ、軽く気合を込めて踏み殺した。そして彼らの体から苦無を引き抜き、さっと数を数えて懐にしまいこむと、懐の奥をまさぐって鉄菱をひとつだけ取り出した。鉄菱は一寸ほどの長さの針が四方に飛び出している。コギリは一番近い赤松の根元を探って、樹皮に垂れていた松脂を針に塗りたくり、道の真ん中にそっと置いてから道を駆け出した。鉄砲と火薬の音を聞きつけ、さらに大勢の追っ手がこちらに向かっているはずだった。
城主の寝所の屋根裏に、密かに火薬を仕込む。大胆極まりないように思えるこの計は、もっと簡単に済むはずだった。火薬と言っても、実際に建物を吹き飛ばせるほどの量ではない。いつか盟約関係が破綻した時、相手にそのことを明かして戦意を失わせるため、あるいはそれとなく噂を流し、城内の者たちを疑心暗鬼に陥らせるための、形ばかりの量だ。
侵入した時、屋根裏にはホコリが積もっていて、人などが歩いた様子はなかった。誰もそこまで気を配っていない証拠だ。侵入者が大胆に足跡を残しながら梁の上を歩き回っても、そのまま何年も発見されないかもしれない。
最近代替わりしたばかりの若い城主。重臣たちはその取り巻きに一新され、城内には新しい体制が敷かれた。古くから勤めてきた者たちはそれを機に一斉に隠居し、城をあげて改革が進んでいるが、日々の警備のような地道な役目にまで目が届く者がいなくなる。誰もが活気に満ちたその城内は、別な見方をすれば怠慢と油断に満ち満ちている。それを、さまざまな仕掛けを施すのに絶好の機会と考えた周辺の城主が、コギリたちの依頼主だった。
コギリは、手早く屋根裏を見てまわると、城主の寝場所の真上と思しき場所を火薬の設置場所に決め、場外で帰りを待つ仲間に段取りを伝えに、梁の上を戻っていった。コギリの役割はほぼ終わり。情報収集であっても、忍び込みというのはせいぜい一刻かそこらの間の仕事で、そう長い時間続けるものではない。天井裏でも、食べない、眠らないのは何日間か我慢できるが、排便はそうはいかない。目立たない場所や相当離れた場所にある便の臭いでも、仲間の臭いでないものを人は無意識に嗅ぎつけ、警戒心を持ってしまう。人が動物である証拠だ。
「しくじり」はその戻り際に起こった。大屋根から壁にとりついていたとき、突然呼子の笛が響いた。その侍は、やや離れたところからこちらの動きを凝視している。コギリは壁から飛び降り、城外へと駆け出しながら、男が壁にとりつき、コギリがやらかしたことを確かめに上ってゆくのを見た。男が追ってきたなら誰にも気づかれずに打ち倒してしまう間があったかもしれなかったが、侍は侵入者の後を追わずに現場の確認に走った。警備の何たるかを知ってる男だ。だからこそ、こんなところを歩き回っていたのかもしれない。いずれにせよ、潜入は悟られた。コギリたちは与えられた務めをしくじり、再度試みる機会をも失ったのだ。
どんな地面でも、足跡を残さずに歩くことはできない。匂いはなおさらである。熟練した追跡者や犬を連れた者なら必ず後を追うことができる。火薬の炸裂音を聞きつけ、勢子の一隊を引き連れてきた侍は、コギリの忍び込みを発見したその男だった。侍は、追手たちがすべて打ち倒されていることに驚いた。炸薬を使ってふいをついたとはいえ、武装した七人ほどの侍たちをすべて打ち倒すのは尋常な腕ではない。そんなことを考えていた時、勢子たちはコギリの撒いた鉄菱にひっかかった。一人がそれを見つけてつまみあげ、騒ぎ出したのだ。
「これは忍び道具ではねえか」
鉄菱の一端をつまんで疑り深い目つきで眺め回し
「松ヤニみてえなもんがついてるなあ」というと、
数人の里人がたちまち周りを取り囲んでのぞきこむ。
「捨て置け、害はない」
と侍は言い捨てて先へ進もうとしたが、勢子たちは
「毒だ!」
と叫ぶとあわてて放り落とし、手についた松ヤニを上衣でぬぐいはじめた。
「さ、行くぞ」
侍は、声に怒気を込めてそう言ったが、勢子たちは落とした鉄菱から目を離さず、口々に言い立てた。
「でも、毒だあ」
「足に刺さるようになっているだ」
「ほかにもあるに違えねえ」
狩や捜索の際には、優秀で狡猾な勢子として獣や人を狩り出す者たちだが、今は獲物ではなく、鉄菱さがしに夢中になってしまった。訓練を受けていない人間は、一度冷静さを失うとどんなに脅しつけても役目に集中できない。たったひとつの菱だが、犬が必ず発見することを逆手に取られた。まんまと賊の計にはまる様子を見て侍は眉根にしわを寄せ何か言おうとしたが、勢子たちをその場に残し一人でぐんぐんと先へ歩き始めた。
心の術だ。侍はそう思った。力ではなく、心の動きようを先回りすることで相手をあやつる術。『先には伝えるべからざるもの』とも言われ、教えたり学んだりすることができない、とっさの機転の技。忍びの得意とするところではあるが、手近な道具だけでこうも鮮やかに仕掛けられる者は珍しい。侍はその技量の程に興味を持ち始めた。
コギリは、仲間が逃げ去ったのとは逆に、山に向かって走っていた。しばらく前から誰かが黙って後を追ってきているのは察していたが、次第に道が細くなり、ついに途切れようとする辺りで声がかかった。
「そこの忍び、逃れられぬぞ」
コギリは振り返って、侍が一人いるのを見た。城壁でコギリを発見した、まさにその男だった
「その姿で街道は通れまい。山道を行くなら隣国はまだまだ遠いぞ」
暗闇に透かした侍の顔は笑っている。賊を追い詰め、斬りかかるという様子でもない。何かを伝えに追いかけてきたかの様子だ。
「城中の者を七人倒したな、いい腕だ。見たかったぞ」
コギリはなおも辺りを探ったが、やはり追っ手はこの侍一人のようだった。
「この森の向こうには川があって、しばらく下ると川守役の番屋がある。中にある半纏をまとえば、川役人に見えるだろう」
自分ただ一人を倒せば無事逃げられると言わんばかりの言葉に、かえってコギリの緊張は高まった。
「だが、その前に立ち会え!」
まるで抑えてきた我慢が限界に来たというように、侍の体から一気に剣気が立ち上がった。
「俺は剣が好きだ。物心ついてより鍛錬を欠かした日はないし、いくつか自分なりの工夫もある。がここにいては、それがどれほどのものか確かめる術もない。お前のような強い者を逃すわけにはいかん」
侍は柄に手をかけてぐいと身を乗り出す。
「出来れば名を聞きたかったが、忍びでは無理だな。ならば、我が名は須藤兵馬!」
侍はそう言うなり、抜き打ちに斬りかかってきた。すさまじい剣気が襲い掛かるが、コギリは草履半分ほど足をずらしただけで、その場を動かない。すぐにも飛んでくると思われた須藤の剣も、抜いて振りかぶったまま静止していた。
「やはり退かないな。このまま打ち込んでいたらどんな技が返ってきたことか。受けてみたい気もするが」
もしコギリが退いていれば、須藤には追い込んで放つ効果的な次の手があったのだ。コギリは苦無を二本、左右の手に分けて持ち、八の字に構えた。その体制から出せる技があったわけではない。須藤という、これまで出会ったことのないほどの使い手と、正面から立ち会わなければならなくなり、相手の発するすべての気配を全身で受け止め、自然に体の動くままに任せるしかないと察したからだ。だが須藤はそれを余裕と感じたらしかった。
「本当にすごい奴がいるものだな」
コギリは今まで侍と立ち会ったことがないわけではない。だから侍の剣というのが身を惜しむ剣であることを知っている。戦場で名のある敵と戦って打ち倒し、無事生き延びて主君に手柄を示し、我が家の栄えることを願う。どれほど腕が立つと言っても、忍び相手に決して捨て身の一撃に出てきたりはしない。そこに、はじめから命を捨てて使命を果たすように育てられているコギリのほうに歩がある。が、須藤は違っていた。しばらく駆け引きを楽しむように間合いを計っていたが、
「むん!」
とばかりに両手で柄を絞り込むと、全身全霊を込めた一撃を真正面から打ち込んできた。
技量が高く、実力の伯仲した者同士の戦いは、あっけなく片が付く。はた目に見れば、ほとんど動けない須藤に向かって、信じられぬような距離を飛び込んでいったコギリが、振り下ろす手首をたやすく抑え、開いた脇腹に苦無を打ち込んだだけに見えたかも知れない。そんな一瞬の後、須藤はコギリの足下に倒れていた。
「そんなに飛ぶのか。負けは仕方ないが、打ち破る工夫がしてみたかった」
人を殺すというのは決して慣れることのできない行為だ。コギリは、殺しのたびに相手の怨念というものを感じざるを得なかった。だが、須藤と名乗る侍を打ち倒し、不思議な思いにとらわれていた。主君への忠誠より自分の技の向上と強い相手と戦う機会を選んだ侍。その執念の力か、普段なら決してしない勝負めいたことをしてしまった。コギリは生き延びたが仲間の元には帰れない。忍びではない、何か別の者として生きていかなければならない。コギリは、足下に倒れている相手から大小の刀を抜き取った。
「須藤兵馬」
その日から、コギリはそう名乗っている。
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「撒き菱」も忍者の道具としてよく登場する。が、マンガのように、懐からさっと掴み出して、パッと撒くようなものではなかったような気がする。使うとすればある程度大量に運んできて、数人がかりで敵の一隊の進路に敷設する、といった具合か。そこで本章では、主人公に、いわゆる「地雷原作戦」をさせた。
地雷原作戦とは
問:地雷原を敷設するのに何個の地雷が必要か
答:0個 / 「地雷原」と書いた立て札を置くだけで、敵は地雷除去作業を行わなくてはならなくなる
というもの。フォークランド戦争で、開戦と同時に英海軍が同海域に原子力潜水艦を出動させたという発表を行ったため、アルゼンチン海軍では掃海作業を行ってから進軍しなければならなくなったのも同じ戦術。
「コギリよ、死ぬるつもりか」
別の男が静かに近づいて言う。コギリと同じ、黒の上下装束に身を包み、同じように城から目を離さない。
「掟だ。俺のしくじりで、もうあそこには容易に入り込めぬ」
コギリが伸ばした手に、さらに別の男が竹筒を数本手渡す。そのどれからも導火線が伸びている。
「惜しいぞ。誰か別の未熟な者に責めを負わせても良いのだ」
そう言われてもコギリは手を休めない。
「そうもいかん。俺も以前、掟通りにしくじった手下を一人斬っている」
だが、それに答える声はすでになく、早くも道の先からは犬の声と松明の明かりがちらつき始めた。コギリは、苦無に手を伸ばしながら、身を伏せて足元の闇に沈み込んでいった。
コギリを残してひたすら闇を走り続ける男たちには、犬の声も人の叫びも聞こえなかったが、しばらくしてパンパンという鉄砲の音に続いて、ズンと響く火薬の音がしっかり聞こえた。コギリが火術を使ったのだ。はたしてどれほどの追っ手を討ち果たしたかはわからないが、十分時間稼ぎにはなってくれるだろう。忍びたちの殿(しんがり)を走りながら、先ほどコギリに話しかけた男は考えていた。コギリはできる忍びだった。体格に恵まれていたこともあったが、いつも術の工夫を忘れぬその様子は、まるでこの務めが好きなのではないかと思わせるほどだった。それだけに、あるいは追手を打ち果たし逃げおおせるのでは、という考えが一瞬浮かんだが、それもすぐ頭からふりはらった。仮に生き延びて戻っても、役目をしくじったコギリの命はない。命を捨てて仲間を里へ戻し、次の機会を狙わせるほうが理屈に合っている。忍びならそう考えるはずだ。
男たちはなおも走り続けたが、やはり追手の気配はない。そのことがまたコギリの死を確かなものに思わせた。ここまでくれば後は楽な道だ。役目をしくじったくらいだから、持ち帰らなければならない物もない。まもなく手引きの者と落ち合って装束を着替え、この地を離れることが出来るだろう。男たちはいつしかナンバ走りの歩を緩め、そう思っていた。
コギリは生きていた。仲間を先にやり、追手を待ち構えていたコギリは、伏せた姿勢から苦無を放ち、駆けつける城中の追手たちの先頭とその次の者の胸に一本づつ突き立てた。
「待ち伏せだ!」
追手は互いにそう叫ぶと、周囲の森の中へ向けてやみくもに鉄砲を放った。自分たちを襲ったものが、すぐ目の前の道のど真ん中に伏せているなどとは思わない。一斉に剣を抜き放ち、周囲の林の暗がりの奥を透かし見ようとしている。
コギリは、ひと呼吸でその場から跳ね起き、一番近い男に体ごと当たると同時に、わき腹に苦無を押し込んだ。力を失って倒れこもうとする体を腰帯に手をかけて支え、体ごと追手たちの中へ飛び込む。ちょうどその時、火薬の筒が破裂した。さっきまでコギリが覆いかぶさって、導火線の火花が見えないように隠していたのだ。しかけたコギリは爆発の時に追手の真ん中に飛び込んでいたせいで、吹き飛ばされたものの怪我はなかったが、まわりの男たちは、爆発で飛び出した鉄片を体中に食い込ませ、うめき声をあげて転げまわった。
コギリはゆっくり起き上がると、ひとりひとり倒れている侍たちの首に足を乗せ、軽く気合を込めて踏み殺した。そして彼らの体から苦無を引き抜き、さっと数を数えて懐にしまいこむと、懐の奥をまさぐって鉄菱をひとつだけ取り出した。鉄菱は一寸ほどの長さの針が四方に飛び出している。コギリは一番近い赤松の根元を探って、樹皮に垂れていた松脂を針に塗りたくり、道の真ん中にそっと置いてから道を駆け出した。鉄砲と火薬の音を聞きつけ、さらに大勢の追っ手がこちらに向かっているはずだった。
城主の寝所の屋根裏に、密かに火薬を仕込む。大胆極まりないように思えるこの計は、もっと簡単に済むはずだった。火薬と言っても、実際に建物を吹き飛ばせるほどの量ではない。いつか盟約関係が破綻した時、相手にそのことを明かして戦意を失わせるため、あるいはそれとなく噂を流し、城内の者たちを疑心暗鬼に陥らせるための、形ばかりの量だ。
侵入した時、屋根裏にはホコリが積もっていて、人などが歩いた様子はなかった。誰もそこまで気を配っていない証拠だ。侵入者が大胆に足跡を残しながら梁の上を歩き回っても、そのまま何年も発見されないかもしれない。
最近代替わりしたばかりの若い城主。重臣たちはその取り巻きに一新され、城内には新しい体制が敷かれた。古くから勤めてきた者たちはそれを機に一斉に隠居し、城をあげて改革が進んでいるが、日々の警備のような地道な役目にまで目が届く者がいなくなる。誰もが活気に満ちたその城内は、別な見方をすれば怠慢と油断に満ち満ちている。それを、さまざまな仕掛けを施すのに絶好の機会と考えた周辺の城主が、コギリたちの依頼主だった。
コギリは、手早く屋根裏を見てまわると、城主の寝場所の真上と思しき場所を火薬の設置場所に決め、場外で帰りを待つ仲間に段取りを伝えに、梁の上を戻っていった。コギリの役割はほぼ終わり。情報収集であっても、忍び込みというのはせいぜい一刻かそこらの間の仕事で、そう長い時間続けるものではない。天井裏でも、食べない、眠らないのは何日間か我慢できるが、排便はそうはいかない。目立たない場所や相当離れた場所にある便の臭いでも、仲間の臭いでないものを人は無意識に嗅ぎつけ、警戒心を持ってしまう。人が動物である証拠だ。
「しくじり」はその戻り際に起こった。大屋根から壁にとりついていたとき、突然呼子の笛が響いた。その侍は、やや離れたところからこちらの動きを凝視している。コギリは壁から飛び降り、城外へと駆け出しながら、男が壁にとりつき、コギリがやらかしたことを確かめに上ってゆくのを見た。男が追ってきたなら誰にも気づかれずに打ち倒してしまう間があったかもしれなかったが、侍は侵入者の後を追わずに現場の確認に走った。警備の何たるかを知ってる男だ。だからこそ、こんなところを歩き回っていたのかもしれない。いずれにせよ、潜入は悟られた。コギリたちは与えられた務めをしくじり、再度試みる機会をも失ったのだ。
どんな地面でも、足跡を残さずに歩くことはできない。匂いはなおさらである。熟練した追跡者や犬を連れた者なら必ず後を追うことができる。火薬の炸裂音を聞きつけ、勢子の一隊を引き連れてきた侍は、コギリの忍び込みを発見したその男だった。侍は、追手たちがすべて打ち倒されていることに驚いた。炸薬を使ってふいをついたとはいえ、武装した七人ほどの侍たちをすべて打ち倒すのは尋常な腕ではない。そんなことを考えていた時、勢子たちはコギリの撒いた鉄菱にひっかかった。一人がそれを見つけてつまみあげ、騒ぎ出したのだ。
「これは忍び道具ではねえか」
鉄菱の一端をつまんで疑り深い目つきで眺め回し
「松ヤニみてえなもんがついてるなあ」というと、
数人の里人がたちまち周りを取り囲んでのぞきこむ。
「捨て置け、害はない」
と侍は言い捨てて先へ進もうとしたが、勢子たちは
「毒だ!」
と叫ぶとあわてて放り落とし、手についた松ヤニを上衣でぬぐいはじめた。
「さ、行くぞ」
侍は、声に怒気を込めてそう言ったが、勢子たちは落とした鉄菱から目を離さず、口々に言い立てた。
「でも、毒だあ」
「足に刺さるようになっているだ」
「ほかにもあるに違えねえ」
狩や捜索の際には、優秀で狡猾な勢子として獣や人を狩り出す者たちだが、今は獲物ではなく、鉄菱さがしに夢中になってしまった。訓練を受けていない人間は、一度冷静さを失うとどんなに脅しつけても役目に集中できない。たったひとつの菱だが、犬が必ず発見することを逆手に取られた。まんまと賊の計にはまる様子を見て侍は眉根にしわを寄せ何か言おうとしたが、勢子たちをその場に残し一人でぐんぐんと先へ歩き始めた。
心の術だ。侍はそう思った。力ではなく、心の動きようを先回りすることで相手をあやつる術。『先には伝えるべからざるもの』とも言われ、教えたり学んだりすることができない、とっさの機転の技。忍びの得意とするところではあるが、手近な道具だけでこうも鮮やかに仕掛けられる者は珍しい。侍はその技量の程に興味を持ち始めた。
コギリは、仲間が逃げ去ったのとは逆に、山に向かって走っていた。しばらく前から誰かが黙って後を追ってきているのは察していたが、次第に道が細くなり、ついに途切れようとする辺りで声がかかった。
「そこの忍び、逃れられぬぞ」
コギリは振り返って、侍が一人いるのを見た。城壁でコギリを発見した、まさにその男だった
「その姿で街道は通れまい。山道を行くなら隣国はまだまだ遠いぞ」
暗闇に透かした侍の顔は笑っている。賊を追い詰め、斬りかかるという様子でもない。何かを伝えに追いかけてきたかの様子だ。
「城中の者を七人倒したな、いい腕だ。見たかったぞ」
コギリはなおも辺りを探ったが、やはり追っ手はこの侍一人のようだった。
「この森の向こうには川があって、しばらく下ると川守役の番屋がある。中にある半纏をまとえば、川役人に見えるだろう」
自分ただ一人を倒せば無事逃げられると言わんばかりの言葉に、かえってコギリの緊張は高まった。
「だが、その前に立ち会え!」
まるで抑えてきた我慢が限界に来たというように、侍の体から一気に剣気が立ち上がった。
「俺は剣が好きだ。物心ついてより鍛錬を欠かした日はないし、いくつか自分なりの工夫もある。がここにいては、それがどれほどのものか確かめる術もない。お前のような強い者を逃すわけにはいかん」
侍は柄に手をかけてぐいと身を乗り出す。
「出来れば名を聞きたかったが、忍びでは無理だな。ならば、我が名は須藤兵馬!」
侍はそう言うなり、抜き打ちに斬りかかってきた。すさまじい剣気が襲い掛かるが、コギリは草履半分ほど足をずらしただけで、その場を動かない。すぐにも飛んでくると思われた須藤の剣も、抜いて振りかぶったまま静止していた。
「やはり退かないな。このまま打ち込んでいたらどんな技が返ってきたことか。受けてみたい気もするが」
もしコギリが退いていれば、須藤には追い込んで放つ効果的な次の手があったのだ。コギリは苦無を二本、左右の手に分けて持ち、八の字に構えた。その体制から出せる技があったわけではない。須藤という、これまで出会ったことのないほどの使い手と、正面から立ち会わなければならなくなり、相手の発するすべての気配を全身で受け止め、自然に体の動くままに任せるしかないと察したからだ。だが須藤はそれを余裕と感じたらしかった。
「本当にすごい奴がいるものだな」
コギリは今まで侍と立ち会ったことがないわけではない。だから侍の剣というのが身を惜しむ剣であることを知っている。戦場で名のある敵と戦って打ち倒し、無事生き延びて主君に手柄を示し、我が家の栄えることを願う。どれほど腕が立つと言っても、忍び相手に決して捨て身の一撃に出てきたりはしない。そこに、はじめから命を捨てて使命を果たすように育てられているコギリのほうに歩がある。が、須藤は違っていた。しばらく駆け引きを楽しむように間合いを計っていたが、
「むん!」
とばかりに両手で柄を絞り込むと、全身全霊を込めた一撃を真正面から打ち込んできた。
技量が高く、実力の伯仲した者同士の戦いは、あっけなく片が付く。はた目に見れば、ほとんど動けない須藤に向かって、信じられぬような距離を飛び込んでいったコギリが、振り下ろす手首をたやすく抑え、開いた脇腹に苦無を打ち込んだだけに見えたかも知れない。そんな一瞬の後、須藤はコギリの足下に倒れていた。
「そんなに飛ぶのか。負けは仕方ないが、打ち破る工夫がしてみたかった」
人を殺すというのは決して慣れることのできない行為だ。コギリは、殺しのたびに相手の怨念というものを感じざるを得なかった。だが、須藤と名乗る侍を打ち倒し、不思議な思いにとらわれていた。主君への忠誠より自分の技の向上と強い相手と戦う機会を選んだ侍。その執念の力か、普段なら決してしない勝負めいたことをしてしまった。コギリは生き延びたが仲間の元には帰れない。忍びではない、何か別の者として生きていかなければならない。コギリは、足下に倒れている相手から大小の刀を抜き取った。
「須藤兵馬」
その日から、コギリはそう名乗っている。
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「撒き菱」も忍者の道具としてよく登場する。が、マンガのように、懐からさっと掴み出して、パッと撒くようなものではなかったような気がする。使うとすればある程度大量に運んできて、数人がかりで敵の一隊の進路に敷設する、といった具合か。そこで本章では、主人公に、いわゆる「地雷原作戦」をさせた。
地雷原作戦とは
問:地雷原を敷設するのに何個の地雷が必要か
答:0個 / 「地雷原」と書いた立て札を置くだけで、敵は地雷除去作業を行わなくてはならなくなる
というもの。フォークランド戦争で、開戦と同時に英海軍が同海域に原子力潜水艦を出動させたという発表を行ったため、アルゼンチン海軍では掃海作業を行ってから進軍しなければならなくなったのも同じ戦術。