17 Jul 2005
「そういえば...」
元大阪西奉行所同心、犬万こと乾(いぬい)万蔵は、天井に開いた大穴から夜空を見上げながら、坂上とコギリに言った。
「同じような騒ぎが、江戸でも起こったそうにございますなあ」
その夜、三人は高麗屋にいた。例の騒動以来、主人のいなくなった高麗屋はそのままずるずると閉店し、今も空き家のままだった。主人の間は一切手をつけられておらず、天井の大穴もそのままで、降った雨を吸って畳が膨れ上がり、むっとかび臭い。
大阪の町では事件が起これば町奉行所が動く。同心から下っ引きまで市中をくまなく聞き込んで歩くのだが、それは物証を探すというより、事件を見聞きした証人を探し、評判の悪い人間や怪しい噂のある人物をしょっ引いて、時には拷問までして自白させるのが目的だ。それがこの時代の普通の犯罪捜査なのだが、下手人探しが目的ではない坂上は、現場が気になっていた。忍びであるコギリや元同心の犬万たちの目で、普通とは違う不審な点を発見してもらいたかったのである。
「江戸のとあるお屋敷で、夜中に天井を破って大きな足がずずーっと降りてきて、洗え、洗えと言ったとか。屋敷の者がその足を洗ってやると、すーっと引っ込んでいったのやそうでございますよ」
「大足かい。須藤さん、あの時はどうだったい」
「いえ、大足などありませんでした。大きな音と光はありましたが」
コギリは答えた。坂上の下で働くようになってからは、隠密御用を務める同心の須藤兵馬と名乗っている。コギリという忍びの名も含めて、これまでも名前は仕事によって絶えず名を変えてきたせいもあって、須藤という侍風の名前もこの頃ではなんとなく板に付いてきた。
この夜初めて現場を見る万蔵はずっと上を向いたままだったが、十手をせわしなく弄んでいるところを見れば、妖怪変化の類には弱いらしい。
「そのお屋敷のある本所界隈では、他にもおかしなことが続いとるとか。それでもっぱら本所七不思議とか噂されて、絵草子まで出て、まあ、えらい評判になっとるそうで。そや、次郎衛門はんは、何か聞いてまへんか」
緋一色の着流しの背中に墨文字で「御用」と大書した、派手な装いの万蔵が振り返った先には、その正反対で、ほぼ黒尽くめと言っていい目立たない姿をした男がいた。万蔵の問いかけに黙って首を振るその男は、朝廷に仕える忍者。御所忍びの小頭格で、戎(えびす)次郎衛門といった。絶えず目を細めた笑ったような顔と、猫背で内股気味に歩くその姿は、一度見たら忘れられないような不気味さと、後日どうしても思い出せないような存在感の無さが同居していた。
その次郎衛門が西町奉行所内の坂上たちの役宅に訪れたのは、十日ほど前のことだった。外回りから戻った三人が居間に座り込み、庭を眺めてひと息ついた時、突然万蔵が目を見開いて庭に向かって十手を突き出した。
「な、なにもんや」
確かに一度庭に目を走らせていたはずなのに、その時は見えなかった。いや、見えていたのに、まるで何年も前からある石灯籠のように、見過ごしてしまっていた。黒い装束に身を包んだ男が一人、庭先に正座してじっと侍していたのである。コギリは居間に入った時から男に気付いており、相手が忍びであること、姿を現して侍している所を見れば敵意はなく、おそらく坂上への使いだろうと見ていた。そして、念のため帯の上から万力鎖(まんりきぐさり)を確かめて、坂上をかばう位置に座った。
「御所より使わされました」
男は、戎次郎衛門と名乗ると、朝廷の使いであると明かした上で、高麗屋への不審な人物の出入りがあるという情報を告げたのである。
その後も次郎衛門は、三日とおかず役宅を訪れては情報を伝えた。丁寧な口調とは裏腹に、コギリは漠然とこの男から嫌われていることを感じた。コギリには、同じ忍びである次郎衛門が自分より腕がたつとは思えなかったが、朝廷に絶対の忠誠心を持っており、役目のためには命を投げ出せる強さを感じていた。流れの忍びとは違うという矜持だったのかもしれない。
長年身についた同心という職業柄、万蔵は何事によらず詮索したがる。が、忍びである次郎衛門は余計なことは一切しゃべらない。万蔵にとって無口というのはそれだけで十分に怪しい。現役時代ならとりあえず番所にしょっ引いて、脅しつけてでも素性を問いただしていたに違いない。時折ひょいと言葉を掛けては、会話のきっかけを掴もうとするが次郎衛門には通用しない。それでもしつこく話しかける。高麗屋に着く前から続く二人のそんなやりとりが途絶えたのは、調理場に入った時だ。店の通用口から続く土間とその奥の大きな調理場の一角は土の床ではなく木の板を渡してあり、板敷きの一部の蓋を上げると、「むろ」へ降りて行く階段があった。コギリは懐から道中行灯を取り出すと、急勾配の梯子を降りて中の様子を見た。むろは大人の背丈の倍近い深さに掘られていて、八畳ほどの広さがあり、天井まで作りつけの棚が並んでいた。以前は昆布などの乾物をしまっておいたのだろう。白口浜や黒口浜といった銘柄名が書かれた箱が散乱しているが、どさくさに使用人が持ち去ったらしく、どれも中身はない。
「イヤなものがありますね」
しばらくして、先頭を歩いて歌コギリは、むろの奥まったところでかがみ込んでそう言った。コギリが行灯を照らした先には、蓋が閉まったままの茶箱ほどの大きさの木箱があった。蓋には妙に毒々しい色彩の絵が一枚貼り付けられている。西洋画を何度か見たことのある坂上には、それが緑色の獅子が太陽に噛みついている様を表していることがわかったが、意味までは判らない。だが、コギリたちが緊張したのはその絵ではない。箱から漂ってくるイヤな匂い。放置された古い死体が放つようなくぐもった匂いのせいだった。
釘止めされていたわけでもない蓋はすぐに開き、案に反してがらんとした箱の中には、油紙と懐紙に包んだ小さな包みがひとつあった。開いてみると、干からびた沢庵のようなものが入っている。匂いを嗅いでみたが、それが腐臭の原因ではなく、箱自体に染みこんでいるものだった。奉公人達が何もかも持ち去った中で、訳があってこれだけ置いていったのか、何か別な物が入っていた箱に、人が寄りつかなくなってから包みを入れたのかはわからない。万蔵と次郎衛門にも包みを回したが、やはり正体は判らないようだった。
そのとき、天井からゴトン、ゴトンという物音が近づいてきた。土間の木の床を、裏の堅い、ちょうど西洋人が履くような履き物で歩く足音だ。コギリは手にしていた道中行灯を懐にしまって光を遮った。足音はまっすぐこちらへ向かってきて、彼らの頭上で止まった。行灯は消したものの、油煙の匂いで下に誰かいるのは知られてしまったことだろう。あるいは彼らがむろに降りるところから見張られていたのかも知れない。
梯子を上り、頭を出せばそのとたんにやられる。しかも上にいるのは一人とは限らない。だが、火を放たれれば逃げ場はない。コギリが意を決して駆け上がろうとした時、戎次郎衛門が甲高い指笛をひとつ吹いた。指笛に答えて、何者かがあわただしく土間に駆け込んで来ると、むろの蓋までたどりついた。と同時に幾筋もの矢が空気を裂き、土間の木の床に突き立つ音がする。そして、頭上から指笛がひとつ聞こえると、次郎衛門も同じように返答した。どこかに潜んでいた御所忍びの仲間が援護に来たのだ。次郎衛門は梯子の中程の段を蹴って土間へ飛び出した。その瞬間、コギリはブツン、ブツンという肉の弾ける音を聞いた。太股など、力のみなぎっている大きな肉に矢が当たると皮と肉が弾け、そういう音を出す。逆に首などの急所の場合は、ほとんど音を立てずにスッと鏃が食い込んでいく。誰かが傷を負ったらしい。
コギリも次郎衛門に続いて土間に飛び出した。その瞬間、弓音が聞こえて何本かの矢が床に突き立ったが、コギリには当たらなかった。短弓は危険な武器だが、弓音を聞いた時にその場を飛び退けば当たる確率はぐんと低くなる。相手の攻撃も止んだ。もちろん姿は見えないが、次の攻撃のため場所を移動しているに違いない。
コギリが見渡すと次郎衛門の配下らしい御所忍びが一人、脚に矢を受けてうずくまっていた。またもう一人、刺し子頭巾を被った別の忍びが怪我した仲間を暗がりへ引き込んでいる。次はこの男が身を盾にして敵に突っ込み、その隙を利用して次郎衛門らが飛び込んで行くつもりなのだろう。
だが、コギリには前回の襲撃から、この不思議な異人たちに対する工夫があった。懐から、経木の欠片に燐を塗った早付木(はやつけぎ)を取り出し、床で擦って放り投げると、床でポンと火がついた。小さな火だったがこの暗闇の中では、目を眩ますほど明るい。コギリは床を蹴って敵に向かって飛び出したが、矢は見当違いの場所に突き立つ。案の定こちらの姿を見失っているらしかった。そのまま間近の敵に蹴りと当てを繰り出すが、敵は後ずさってかわすばかりで、反撃できない。短弓といい、獣じみた身のこなしといい、恐るべき戦士たちではあったが、案の定体術・小具足術の心得が全くない。もし相手が柔術使いだったなら十分危険な間合いにまで近づいてしまっているのだが、無造作に手足を繰り出しても、からめ取られる心配はなかった。
そのうち相手は短弓を手斧に持ち替え、真っ向から振り下ろしてきた。コギリは身をひねってかわすと、同時に草履半足分ほど間合いを詰めた。敵は、大降りの攻撃を繰り出す度にかわされて間合いを詰められることに驚き、今度はいきなり身を沈めてコギリの脚をめがけて手斧を振り回した。コギリは手斧をかわすと、相手の頭の天辺を平手でポンと打った。
頭は堅い骨で覆われている。掌で押し込まれたくらいでは何の影響もないようなものだが、男はすとんと尻餅をついてそのまま突っ伏し、口と目を半開きにしたまま動けなくなった。しかもその顔はまるで、額から上の部分が切り取られたように見える。これはコギリが放った小具足の技だった。頭の天辺には頭頂骨と呼ばれる小皿ほどの大きさの骨があり、周囲の骨で支えられている。骨同士は互いに縫い合わされたような頑丈で複雑な継ぎ目でつながっているのだが、頭頂に真上から上手く圧力を加えると、周囲の骨が開いて頭頂骨が頭蓋の中に落ち込み、脳に重大な衝撃が加わることになる。この技を食らっても、安静にしていれば死ぬとは限らないのだが、治療は難しい。よほどの接骨の名人でも元に戻すことはかなわず、多くは治療のために命を落とすことになる。
コギリが飛び込んでかき回したせいで、今度は御所忍びの一団が追いついてきて、次々と相手を討ち果たした。傷ついた相手の何人かは仲間が連れ去ったが、息絶えた者が二人、その場に取り残されていた。異人は上半身裸で、顔と体に刺青があり、皮をなめした袴を着け、履物も皮を縫い上げて作ったものをはいていた。伸ばし放題の髪は後ろで束ね、鉢巻を締めている。日焼けしたその顔だけ見れば東洋人によく似ており、西洋人ではないのだが、異国から来た者に間違いない。一方、足音だけ聞こえた西洋風履物の者は、騒動の最中も姿を見かけなかった。
敵が去ったことを確かめ土間に戻ると、暗がりで次郎衛門が倒れていた。刺し子頭巾の手下の腕に抱きかかえられ、見れば首筋には短い矢が突き立っていて、松風の急所のすぐ側から、喉仏のほうまで突き抜けている。深手だが意識はあるようで、口から血の泡を吐き目をしばたたかせながら、何かを言いたそうにしている。血の泡は喉の穴からもじくじくと噴き出し、空気が抜けて言葉にならない。コギリは口元に耳を近づけて聞き取ろうとしたが、唇が動くだけで声が出ていない。そこで次郎衛門の鼻をつまみ、て喉の傷口から息を吹き込んだ。
「い、いけだ。池田へ...」
「池田だな。大阪の北の池田か」
次郎衛門はうなづくと、そのまま体から力が抜けていった。刺し子頭巾の忍びは、次郎衛門を抱え、他の忍びたちとともに去っていった。次郎衛門の生死は判らないが、かつてコギリがいた忍び集団なら、死んだ者や重傷の者はその場に残されただろう。同じ影働きでありながら、窮屈な掟に進んで身をゆだねる御所忍びたちの生き方が少し分かったような気がした。
次郎衛門の言い残した池田は大阪市中から見ると北西、妙見山の麓に広がる地域だ。上方の賑わいとは無縁の山里で、山林や畑が広がり、猪猟師なども暮らしている。そこで何かが起こっているということだろうか。コギリはしばらく潜入してみようと思った。
「ところで」
帰り道、坂上はふと思い出したように万蔵に尋ねた。
「本所七不思議が起こったというのは、どなたのお屋敷か聞いたかい」
「へえ。なんでも松坂町の、吉良上野介様という方のお屋敷だそうにございます」
***********************************
本所松坂町の吉良屋敷は、松の廊下の後に出来た建物だとか。元禄時代は実にいろいろな出来事が起こったので、暦を確認しないと後々矛盾するだろうなと思いながら、とりあえず書くのが楽しいからと書いてしまったのだが、早くもつじつまが破綻してしまった。おいおい修正するつもり。
元大阪西奉行所同心、犬万こと乾(いぬい)万蔵は、天井に開いた大穴から夜空を見上げながら、坂上とコギリに言った。
「同じような騒ぎが、江戸でも起こったそうにございますなあ」
その夜、三人は高麗屋にいた。例の騒動以来、主人のいなくなった高麗屋はそのままずるずると閉店し、今も空き家のままだった。主人の間は一切手をつけられておらず、天井の大穴もそのままで、降った雨を吸って畳が膨れ上がり、むっとかび臭い。
大阪の町では事件が起これば町奉行所が動く。同心から下っ引きまで市中をくまなく聞き込んで歩くのだが、それは物証を探すというより、事件を見聞きした証人を探し、評判の悪い人間や怪しい噂のある人物をしょっ引いて、時には拷問までして自白させるのが目的だ。それがこの時代の普通の犯罪捜査なのだが、下手人探しが目的ではない坂上は、現場が気になっていた。忍びであるコギリや元同心の犬万たちの目で、普通とは違う不審な点を発見してもらいたかったのである。
「江戸のとあるお屋敷で、夜中に天井を破って大きな足がずずーっと降りてきて、洗え、洗えと言ったとか。屋敷の者がその足を洗ってやると、すーっと引っ込んでいったのやそうでございますよ」
「大足かい。須藤さん、あの時はどうだったい」
「いえ、大足などありませんでした。大きな音と光はありましたが」
コギリは答えた。坂上の下で働くようになってからは、隠密御用を務める同心の須藤兵馬と名乗っている。コギリという忍びの名も含めて、これまでも名前は仕事によって絶えず名を変えてきたせいもあって、須藤という侍風の名前もこの頃ではなんとなく板に付いてきた。
この夜初めて現場を見る万蔵はずっと上を向いたままだったが、十手をせわしなく弄んでいるところを見れば、妖怪変化の類には弱いらしい。
「そのお屋敷のある本所界隈では、他にもおかしなことが続いとるとか。それでもっぱら本所七不思議とか噂されて、絵草子まで出て、まあ、えらい評判になっとるそうで。そや、次郎衛門はんは、何か聞いてまへんか」
緋一色の着流しの背中に墨文字で「御用」と大書した、派手な装いの万蔵が振り返った先には、その正反対で、ほぼ黒尽くめと言っていい目立たない姿をした男がいた。万蔵の問いかけに黙って首を振るその男は、朝廷に仕える忍者。御所忍びの小頭格で、戎(えびす)次郎衛門といった。絶えず目を細めた笑ったような顔と、猫背で内股気味に歩くその姿は、一度見たら忘れられないような不気味さと、後日どうしても思い出せないような存在感の無さが同居していた。
その次郎衛門が西町奉行所内の坂上たちの役宅に訪れたのは、十日ほど前のことだった。外回りから戻った三人が居間に座り込み、庭を眺めてひと息ついた時、突然万蔵が目を見開いて庭に向かって十手を突き出した。
「な、なにもんや」
確かに一度庭に目を走らせていたはずなのに、その時は見えなかった。いや、見えていたのに、まるで何年も前からある石灯籠のように、見過ごしてしまっていた。黒い装束に身を包んだ男が一人、庭先に正座してじっと侍していたのである。コギリは居間に入った時から男に気付いており、相手が忍びであること、姿を現して侍している所を見れば敵意はなく、おそらく坂上への使いだろうと見ていた。そして、念のため帯の上から万力鎖(まんりきぐさり)を確かめて、坂上をかばう位置に座った。
「御所より使わされました」
男は、戎次郎衛門と名乗ると、朝廷の使いであると明かした上で、高麗屋への不審な人物の出入りがあるという情報を告げたのである。
その後も次郎衛門は、三日とおかず役宅を訪れては情報を伝えた。丁寧な口調とは裏腹に、コギリは漠然とこの男から嫌われていることを感じた。コギリには、同じ忍びである次郎衛門が自分より腕がたつとは思えなかったが、朝廷に絶対の忠誠心を持っており、役目のためには命を投げ出せる強さを感じていた。流れの忍びとは違うという矜持だったのかもしれない。
長年身についた同心という職業柄、万蔵は何事によらず詮索したがる。が、忍びである次郎衛門は余計なことは一切しゃべらない。万蔵にとって無口というのはそれだけで十分に怪しい。現役時代ならとりあえず番所にしょっ引いて、脅しつけてでも素性を問いただしていたに違いない。時折ひょいと言葉を掛けては、会話のきっかけを掴もうとするが次郎衛門には通用しない。それでもしつこく話しかける。高麗屋に着く前から続く二人のそんなやりとりが途絶えたのは、調理場に入った時だ。店の通用口から続く土間とその奥の大きな調理場の一角は土の床ではなく木の板を渡してあり、板敷きの一部の蓋を上げると、「むろ」へ降りて行く階段があった。コギリは懐から道中行灯を取り出すと、急勾配の梯子を降りて中の様子を見た。むろは大人の背丈の倍近い深さに掘られていて、八畳ほどの広さがあり、天井まで作りつけの棚が並んでいた。以前は昆布などの乾物をしまっておいたのだろう。白口浜や黒口浜といった銘柄名が書かれた箱が散乱しているが、どさくさに使用人が持ち去ったらしく、どれも中身はない。
「イヤなものがありますね」
しばらくして、先頭を歩いて歌コギリは、むろの奥まったところでかがみ込んでそう言った。コギリが行灯を照らした先には、蓋が閉まったままの茶箱ほどの大きさの木箱があった。蓋には妙に毒々しい色彩の絵が一枚貼り付けられている。西洋画を何度か見たことのある坂上には、それが緑色の獅子が太陽に噛みついている様を表していることがわかったが、意味までは判らない。だが、コギリたちが緊張したのはその絵ではない。箱から漂ってくるイヤな匂い。放置された古い死体が放つようなくぐもった匂いのせいだった。
釘止めされていたわけでもない蓋はすぐに開き、案に反してがらんとした箱の中には、油紙と懐紙に包んだ小さな包みがひとつあった。開いてみると、干からびた沢庵のようなものが入っている。匂いを嗅いでみたが、それが腐臭の原因ではなく、箱自体に染みこんでいるものだった。奉公人達が何もかも持ち去った中で、訳があってこれだけ置いていったのか、何か別な物が入っていた箱に、人が寄りつかなくなってから包みを入れたのかはわからない。万蔵と次郎衛門にも包みを回したが、やはり正体は判らないようだった。
そのとき、天井からゴトン、ゴトンという物音が近づいてきた。土間の木の床を、裏の堅い、ちょうど西洋人が履くような履き物で歩く足音だ。コギリは手にしていた道中行灯を懐にしまって光を遮った。足音はまっすぐこちらへ向かってきて、彼らの頭上で止まった。行灯は消したものの、油煙の匂いで下に誰かいるのは知られてしまったことだろう。あるいは彼らがむろに降りるところから見張られていたのかも知れない。
梯子を上り、頭を出せばそのとたんにやられる。しかも上にいるのは一人とは限らない。だが、火を放たれれば逃げ場はない。コギリが意を決して駆け上がろうとした時、戎次郎衛門が甲高い指笛をひとつ吹いた。指笛に答えて、何者かがあわただしく土間に駆け込んで来ると、むろの蓋までたどりついた。と同時に幾筋もの矢が空気を裂き、土間の木の床に突き立つ音がする。そして、頭上から指笛がひとつ聞こえると、次郎衛門も同じように返答した。どこかに潜んでいた御所忍びの仲間が援護に来たのだ。次郎衛門は梯子の中程の段を蹴って土間へ飛び出した。その瞬間、コギリはブツン、ブツンという肉の弾ける音を聞いた。太股など、力のみなぎっている大きな肉に矢が当たると皮と肉が弾け、そういう音を出す。逆に首などの急所の場合は、ほとんど音を立てずにスッと鏃が食い込んでいく。誰かが傷を負ったらしい。
コギリも次郎衛門に続いて土間に飛び出した。その瞬間、弓音が聞こえて何本かの矢が床に突き立ったが、コギリには当たらなかった。短弓は危険な武器だが、弓音を聞いた時にその場を飛び退けば当たる確率はぐんと低くなる。相手の攻撃も止んだ。もちろん姿は見えないが、次の攻撃のため場所を移動しているに違いない。
コギリが見渡すと次郎衛門の配下らしい御所忍びが一人、脚に矢を受けてうずくまっていた。またもう一人、刺し子頭巾を被った別の忍びが怪我した仲間を暗がりへ引き込んでいる。次はこの男が身を盾にして敵に突っ込み、その隙を利用して次郎衛門らが飛び込んで行くつもりなのだろう。
だが、コギリには前回の襲撃から、この不思議な異人たちに対する工夫があった。懐から、経木の欠片に燐を塗った早付木(はやつけぎ)を取り出し、床で擦って放り投げると、床でポンと火がついた。小さな火だったがこの暗闇の中では、目を眩ますほど明るい。コギリは床を蹴って敵に向かって飛び出したが、矢は見当違いの場所に突き立つ。案の定こちらの姿を見失っているらしかった。そのまま間近の敵に蹴りと当てを繰り出すが、敵は後ずさってかわすばかりで、反撃できない。短弓といい、獣じみた身のこなしといい、恐るべき戦士たちではあったが、案の定体術・小具足術の心得が全くない。もし相手が柔術使いだったなら十分危険な間合いにまで近づいてしまっているのだが、無造作に手足を繰り出しても、からめ取られる心配はなかった。
そのうち相手は短弓を手斧に持ち替え、真っ向から振り下ろしてきた。コギリは身をひねってかわすと、同時に草履半足分ほど間合いを詰めた。敵は、大降りの攻撃を繰り出す度にかわされて間合いを詰められることに驚き、今度はいきなり身を沈めてコギリの脚をめがけて手斧を振り回した。コギリは手斧をかわすと、相手の頭の天辺を平手でポンと打った。
頭は堅い骨で覆われている。掌で押し込まれたくらいでは何の影響もないようなものだが、男はすとんと尻餅をついてそのまま突っ伏し、口と目を半開きにしたまま動けなくなった。しかもその顔はまるで、額から上の部分が切り取られたように見える。これはコギリが放った小具足の技だった。頭の天辺には頭頂骨と呼ばれる小皿ほどの大きさの骨があり、周囲の骨で支えられている。骨同士は互いに縫い合わされたような頑丈で複雑な継ぎ目でつながっているのだが、頭頂に真上から上手く圧力を加えると、周囲の骨が開いて頭頂骨が頭蓋の中に落ち込み、脳に重大な衝撃が加わることになる。この技を食らっても、安静にしていれば死ぬとは限らないのだが、治療は難しい。よほどの接骨の名人でも元に戻すことはかなわず、多くは治療のために命を落とすことになる。
コギリが飛び込んでかき回したせいで、今度は御所忍びの一団が追いついてきて、次々と相手を討ち果たした。傷ついた相手の何人かは仲間が連れ去ったが、息絶えた者が二人、その場に取り残されていた。異人は上半身裸で、顔と体に刺青があり、皮をなめした袴を着け、履物も皮を縫い上げて作ったものをはいていた。伸ばし放題の髪は後ろで束ね、鉢巻を締めている。日焼けしたその顔だけ見れば東洋人によく似ており、西洋人ではないのだが、異国から来た者に間違いない。一方、足音だけ聞こえた西洋風履物の者は、騒動の最中も姿を見かけなかった。
敵が去ったことを確かめ土間に戻ると、暗がりで次郎衛門が倒れていた。刺し子頭巾の手下の腕に抱きかかえられ、見れば首筋には短い矢が突き立っていて、松風の急所のすぐ側から、喉仏のほうまで突き抜けている。深手だが意識はあるようで、口から血の泡を吐き目をしばたたかせながら、何かを言いたそうにしている。血の泡は喉の穴からもじくじくと噴き出し、空気が抜けて言葉にならない。コギリは口元に耳を近づけて聞き取ろうとしたが、唇が動くだけで声が出ていない。そこで次郎衛門の鼻をつまみ、て喉の傷口から息を吹き込んだ。
「い、いけだ。池田へ...」
「池田だな。大阪の北の池田か」
次郎衛門はうなづくと、そのまま体から力が抜けていった。刺し子頭巾の忍びは、次郎衛門を抱え、他の忍びたちとともに去っていった。次郎衛門の生死は判らないが、かつてコギリがいた忍び集団なら、死んだ者や重傷の者はその場に残されただろう。同じ影働きでありながら、窮屈な掟に進んで身をゆだねる御所忍びたちの生き方が少し分かったような気がした。
次郎衛門の言い残した池田は大阪市中から見ると北西、妙見山の麓に広がる地域だ。上方の賑わいとは無縁の山里で、山林や畑が広がり、猪猟師なども暮らしている。そこで何かが起こっているということだろうか。コギリはしばらく潜入してみようと思った。
「ところで」
帰り道、坂上はふと思い出したように万蔵に尋ねた。
「本所七不思議が起こったというのは、どなたのお屋敷か聞いたかい」
「へえ。なんでも松坂町の、吉良上野介様という方のお屋敷だそうにございます」
***********************************
本所松坂町の吉良屋敷は、松の廊下の後に出来た建物だとか。元禄時代は実にいろいろな出来事が起こったので、暦を確認しないと後々矛盾するだろうなと思いながら、とりあえず書くのが楽しいからと書いてしまったのだが、早くもつじつまが破綻してしまった。おいおい修正するつもり。