「あれは、何だったのだ」
男はたった今自分の目で見たものが信じられなかった。
男は忍びだった。忍び里では別な名で持っていたが、そこを抜けてしまった今は、必要に応じて須藤兵馬、あるいは下野(しもつけ)のコギリと名乗っている。ここ数日、依頼を受けて高麗屋に忍び込み、来客の会話などを盗み聞きしていたのだが、その夜、主の寝所の天井裏で、とんでもないものに出くわしてしまった。
高麗屋は名人の名高い先代の貞市が開いた大阪きっての名料理店だったが、元禄になって今の主に代替わりしてから金持ち相手の土産物や仕出し料理に手を広げて身代を大きくした。それだけならいいが、チャボを仕入れて名物の鴨料理と偽っていたことが発覚し、町中の騒動になっていた。その騒動が起こって以来、主は来客を避け、時折番頭を呼びつけてはいらだった口調であれこれと言いつけるだけで、食事も部屋に運ばせて一歩も外へ出ない。
その騒ぎは突然だった。大音声とともに、天井に大穴を開けて何かが寝所に降って来た。落下音も何もなく突然のことだったのでコギリもあやういところだった。寝所を覗き込むと、主の前に人型の雷としかいえない眩いものが立っていた。驚いて取り乱しながらも主にはその正体が分かってようで、何やら話しかけようとしたのだが、雷はたちまち青黒い炎に変じ、主を取り巻いてそのまま床に引きずり込んで消えてしまった。跡には焦げ跡ひとつなく、ただ屋根と天井を貫く大穴から星空が見えるばかりだった。
コギリにしてみれば、このまま戻って報告できるような話ではなかった。約定の半金を貰い損ねることになるが、いっそ天井ごと吹き飛んだとでも思ってもらったほうが面倒がなくていいかもしれない、と思った。

コギリが高麗屋の屋根を伝って裏路に降り立った時、何かが風を切った。身を翻すと、足元に短い矢が一本突き立っている。苦無(くない)を構えて矢が来た方向を探ると、上半身裸で奇妙な刺青をし、野袴のようなものだけを身につけた男が道の先に立って、短弓を構えて次の矢を射ろうとしている。コギリは、狙いをつけさせないよう体を左右に振りながら一気に半裸の男との間を詰めた。そこへ次の矢。がこれも脇をかすめて飛び去った。狙いは正確。正確だから体術でかわすことができた。
忍びが刀を持つことは滅多に無い。コギリは手にした苦無を頼りに、組討でし止めるつもりだったが、相手もすばやく身を翻し、今度は手斧のようなものを打ち下ろしてきた。その動きはコギリ以上に俊敏で、武器の扱いも手馴れている。が、コギリが振り下ろした手首と肘に手を添えて相手の力そのままに引き込もうとすると、驚きの表情を浮かべ、弾かれたように飛びのいた。おそるべき跳躍力だが、組討小具足などの心得は全く無いようだ。しかも攻撃のたびに掛け声を発するところなど、闇討ちは得意ではないらしい。裸足だが足は恐ろしく速く、忍びでも追いつけない。紅毛碧眼というわけではないが、これは異人ではないかと思った。
異人はコギリから離れ、ふりむきざまに正確な矢を放ってきた。近距離なだけに、かわすのが精一杯で近づけない。コギリは懐に手を入れると十文字型の手裏剣を手にした。以前潜入した先で出くわした忍びが使っていたもので、修練の出来ていない者が無造作に放っても当たることは当たる。が持ち運びにくく、自分が怪我をしやすいうえ、回りながら飛んでいく様がはっきり見えてしまう。実践的な棒手裏剣術を身につけた者から見れば滑稽なしろものだが、思うところあって工夫を加えて持ち歩いているのだ。
コギリはその十文字型の手裏剣を持つと、一歩踏み出しながら思い切り回転させて放った。異人は夜目も効くらしく、矢ほどの早さも無くしかも見当違いの方向に飛んでくる手裏剣など意に介しない。が、それはストンと落ちるように方向を変え、異人の肩口に傷を負わせた。十文字の刃それぞれに捻りを加え、急角度で曲がるように工夫してあったのだ。異人の狼狽ぶりは、闇の中でも見て取れた。奇妙な敵だが、勝てる。今度こそしとめようとコギリが構えた時、突然目の前に高麗屋で見たあの光が現れた。光は、高麗屋のときと同じように、音も無く目の前で炸裂し、じわじわと近づいてくる。逃げなくてはという思いが頭の中を駆け巡っていたところへ、出し抜けに声がかかった。
「退いておれ」
気配は無かった。だが誰かが、忍びであるコギリにも気づかれず背後に近づいて、いきなり声を掛けてきたのだ。コギリはとびのいて、闇をすかし見ながら苦無(くない)を構えると、そこに立っていたのは何とも異様な姿の男だった。中国風の甲冑を身にまとい、さらにその上から金襴の陣羽織のようなものを羽織っている。がっしりとした体格に、秀でた額と厚い唇、大きく顎が張り首は太く、半眼で遠くをにらみつける様子は、古刹で見かける毘沙門天さながらだ。手には剣の代わりに大振りの四角い金属棒。コギリを振り返るでもなく光を見据えている。
「流れの忍びか」
返事はしない。が、相手からの殺気もないので、逃げる準備だけしてすっと殺気をほどいてみせると、毘沙門天はコギリをかばうようにめらめらと揺れ輝く光に向き合い、鉄棒を右へ、左へ、そして前へとゆっくり振りながら、
「観世音、南無仏、与仏有因、与仏有縁...」
で始まる十句観音経(じっくかんのんぎょう)を唱え始めた。今上の上皇が天台の高僧、霊空光謙に選び出させたものといわれ、霊験のあらたかさで巷で大流行している。だが、それまでその場で吹き上げるように輝いていた光が身をよじるように揺れ始めた。そして、突然塊となって男にぶつかってきて、一瞬あたりが真昼の眩さに変わると、そのまま消え去った。眼が眩んで白黒逆転の光景の中から、この騒動の中で微動だにしなかった男がぼんやりと姿を表す。
「あれが何であるか、そこがまだよくわからんのだ」
と、コギリの考えを汲み取ったように語った。
そして、
「あれだけではないぞ。見ろ」
毘沙門が棒で示す先では、火の見櫓や寺の大屋根など、高麗屋を見通せるあちこちの高い場所から、異人たちが逃げ去ってゆくところだった。
男は、
「もう請け事は無くなったのだろう。このまま俺に仕えろ。目付に任ぜよう」
と一方的に言った。
その時近くで呼笛が鳴った。続いて大八車や大勢の人に混じって馬の脚音が近づいてきたと思うと御用提灯に取り囲まれた。その奥から馬に乗った侍が進み出た。
「西町奉行所である。高麗屋の騒動について問い質したきことがある」
これはやっかいなことに巻き込まれたと、コギリが逃げ路を探した時、甲冑の男は大声で返した。
「征夷軍監、坂上高野。そしてこれは我が隠し目付けである」
と、呼ばわった。
せいいぐんかん、さかのうえのたかの。その名乗りを聞いた馬上の侍は驚き
「西町奉行、氷見重直にござる。馬上よりの詰問、ご無礼つかまつった」
と言うなり下馬し、笠をとって礼をした。御用提灯に照らされて仁王立ちになった毘沙門天とその周りに控える大阪西町奉行所の御用提灯という不可思議な光景。コギリは、逃げる必要はなくなったらしいが、かえってのっぴきならない事態に足を踏み込んだのを察した。
深夜の町筋では呼笛に反応してか、あちこちから無数犬の吠え声が聞こえる。そして、坂上が夜空に目を走らせ
「生類憐みの令...か」
とつぶやいたその時、ひときわ甲高い遠吠えがひとつ聞こえた。コギリには、なぜかそれがさきほどの半裸の男が発したもののように思えた。

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十字手裏剣と言えば忍者の象徴であり、博物館などにも実物が残ってはいるのだが、実用性があるとは思えない。どこをつかんでも手を切りそうな形なので、専用ケースに収納しないと、持ち運びも扱いもやっかいだ。また、マンガや映画のように、多数の手裏剣を持ち歩いていたというのも、かさばり過ぎるので現実的でないと思う。持って歩いたとしても1枚か2枚だろう。それにしてもどんな場面で使うと効果的なのか、想像もつかない。そこで本作では、羽にカーブをかけることで、曲がりながら飛んでいくと書いてみたのだが、これもウソだ。ウソと言えばマンガに出てくる分銅鎖も、いかにも長すぎる。あれを丸めたら、一抱えもある鎖の玉になってしまい持ち運ぶことも投げることもできないだろう。