14 Nov 2007
江戸は元禄の時代、天下の台所として賑わう大阪船場の筋に、高麗屋と呼ばれる懐石料理の名店があった。初代の貞市が開店の折に、早馬を仕立てて富士の湧水を汲んで届けさせ、客に一杯の茶を献じたことでたちまち評判となり、大名旗本をはじめ、大店の主や歌舞伎役者など、当代一流の粋人たちが贔屓にして足繁く通うほどになった。
ところが初代の貞市が亡くなったころから高麗屋は変わり始める。客に料理を供するだけではあきたらず、佃煮練り物菓子乾物を作り置きしては土産物として売るようになったのだが、これが評判を呼んで売れに売れた。何しろ一文で仕入れたものが高麗屋の折に入れただけで一両になるのだから笑いが止まらない。その上、材料を落とせば落としただけ、手間を省けば省いただけ利が出る。材料をおごり手間を掛け、客のご機嫌をとりながら料理を作るなど、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
ところで高麗屋では、初代が考案した鴨の椀物が名物だった。その肉だけでなく丹念に骨を砕いて髄を出し、舌に障らなくなるまで叩いて椀種に仕立てるという凝ったものだったが、これもいつしか包丁で叩く手間を惜しんでぶつ切りのまま大鍋で煮立てるだけに。そして丹波の御料池で霞網で捕らえたという触れ込みの鴨も、近隣の百姓家の庭先で飼われていたチャボに変わっていた。
だがこんなことがいつまでも続くわけはない。ある日、さる旗本の宴席で、客が出された鴨の椀の蓋をとると、中から出てきたのはほどよく炊けたチャボの首。旗本が板前を呼びつけこれは何かと問い正すと、へえこれは丹波の国の御料池で霞網にて、とやりだしたものだから、旗本は怒り心頭。鴨に鶏冠があるかと一喝し、その場で板前を抜き打ちに斬り捨てた。
話はそれだけでは終わらない。鴨に鶏冠の話はたちまち巷に広がり、日頃金に飽かして珍奇な物を食いあさる大商人や威張り腐った大名旗本たちが、実は舌馬鹿鼻詰まりと、庶民は大笑い。戯れ歌を作って大いにはやし立てたから、騒ぎはどんどん大きくなった。そもそも船場には米問屋・札差商が多く集まり、諸藩の年貢米が集まって一手に取引されていたことから、さまざまな大名家から毎年勘定方がやってきては、帰りに大阪名物高麗屋の珍味を買い求め、国元の家族や同輩、時には城主にまで土産物にするのが常だったが、それがとんだ大恥をかかされることになった。日頃贔屓にしていた商人たちの中にも、高麗屋の苦しい時に当座のものを用立てたり、新しい客を世話するなど、影に日向に大阪の誇る名店を盛り立ててきた者も少なからずいたのだが、恩を仇で返され高麗屋許すまじといきり立った。騒動以来、高麗屋の店先にはばったりと客足が途絶え、代わりに妙に殺気立った侍や通行人に扮した仕掛け人などがうろつくようになったのだが、肝心の高麗屋主人はといえば、斬られた板前と出入りの商人に罪を押し付けて奥の間に閉じ籠ったきり一切顔を出さない。
この騒ぎをはるか極楽浄土から見ていたのが、初代の貞市である。店を大きくし楽隠居の末に大往生を遂げた後もなお、諸国の料理人たちの信仰を集めて吉兆大明神と祀られていたのだが、残してきた店がおかしな商売を始めた頃からどうにも気が気でない。が、ついに大しくじりをやらかしたからには、あれも生きてはおられまい。まもなく首をくくってここに来ようから、その時にたっぷりと油を絞ってやろうと待ち構えていたのだが、当の主は件の有様である。観世音菩薩に暇乞いをし、神器の大出刃を逆手に持ち替え、蓮の座を蹴ってぬっと立ち上がるとたちまち憤怒を表し、金壺眼をかっと見開いたまま下界に飛び降りる。轟音とともに高麗屋の屋根に大穴を空け、腰を抜かした主人の前に立ちはだかった時には、すっかり悪鬼羅刹の姿。このど阿呆と一喝して高麗屋の首根っこをひっつかむと鬼の腕(かいな)に抱え込み、突然足元に空いた奈落に向かって諸共に身を投げると、うめき声をあげて待ち構える地獄の亡者の群れに飛び込んでそのまま見えなくなった。
さて唐の国では代々の王朝が滅びる時、雌鳥が刻を告げると言われている。栄華を極めながら慢心増長の果てに悲惨な最期を遂げた高麗屋の顛末を哀れんで、大阪の町ではしばらくこんな戯れ歌が流行ったという。
かうらいや、せんばの鴨が刻を告げ
おそまつ
ところが初代の貞市が亡くなったころから高麗屋は変わり始める。客に料理を供するだけではあきたらず、佃煮練り物菓子乾物を作り置きしては土産物として売るようになったのだが、これが評判を呼んで売れに売れた。何しろ一文で仕入れたものが高麗屋の折に入れただけで一両になるのだから笑いが止まらない。その上、材料を落とせば落としただけ、手間を省けば省いただけ利が出る。材料をおごり手間を掛け、客のご機嫌をとりながら料理を作るなど、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
ところで高麗屋では、初代が考案した鴨の椀物が名物だった。その肉だけでなく丹念に骨を砕いて髄を出し、舌に障らなくなるまで叩いて椀種に仕立てるという凝ったものだったが、これもいつしか包丁で叩く手間を惜しんでぶつ切りのまま大鍋で煮立てるだけに。そして丹波の御料池で霞網で捕らえたという触れ込みの鴨も、近隣の百姓家の庭先で飼われていたチャボに変わっていた。
だがこんなことがいつまでも続くわけはない。ある日、さる旗本の宴席で、客が出された鴨の椀の蓋をとると、中から出てきたのはほどよく炊けたチャボの首。旗本が板前を呼びつけこれは何かと問い正すと、へえこれは丹波の国の御料池で霞網にて、とやりだしたものだから、旗本は怒り心頭。鴨に鶏冠があるかと一喝し、その場で板前を抜き打ちに斬り捨てた。
話はそれだけでは終わらない。鴨に鶏冠の話はたちまち巷に広がり、日頃金に飽かして珍奇な物を食いあさる大商人や威張り腐った大名旗本たちが、実は舌馬鹿鼻詰まりと、庶民は大笑い。戯れ歌を作って大いにはやし立てたから、騒ぎはどんどん大きくなった。そもそも船場には米問屋・札差商が多く集まり、諸藩の年貢米が集まって一手に取引されていたことから、さまざまな大名家から毎年勘定方がやってきては、帰りに大阪名物高麗屋の珍味を買い求め、国元の家族や同輩、時には城主にまで土産物にするのが常だったが、それがとんだ大恥をかかされることになった。日頃贔屓にしていた商人たちの中にも、高麗屋の苦しい時に当座のものを用立てたり、新しい客を世話するなど、影に日向に大阪の誇る名店を盛り立ててきた者も少なからずいたのだが、恩を仇で返され高麗屋許すまじといきり立った。騒動以来、高麗屋の店先にはばったりと客足が途絶え、代わりに妙に殺気立った侍や通行人に扮した仕掛け人などがうろつくようになったのだが、肝心の高麗屋主人はといえば、斬られた板前と出入りの商人に罪を押し付けて奥の間に閉じ籠ったきり一切顔を出さない。
この騒ぎをはるか極楽浄土から見ていたのが、初代の貞市である。店を大きくし楽隠居の末に大往生を遂げた後もなお、諸国の料理人たちの信仰を集めて吉兆大明神と祀られていたのだが、残してきた店がおかしな商売を始めた頃からどうにも気が気でない。が、ついに大しくじりをやらかしたからには、あれも生きてはおられまい。まもなく首をくくってここに来ようから、その時にたっぷりと油を絞ってやろうと待ち構えていたのだが、当の主は件の有様である。観世音菩薩に暇乞いをし、神器の大出刃を逆手に持ち替え、蓮の座を蹴ってぬっと立ち上がるとたちまち憤怒を表し、金壺眼をかっと見開いたまま下界に飛び降りる。轟音とともに高麗屋の屋根に大穴を空け、腰を抜かした主人の前に立ちはだかった時には、すっかり悪鬼羅刹の姿。このど阿呆と一喝して高麗屋の首根っこをひっつかむと鬼の腕(かいな)に抱え込み、突然足元に空いた奈落に向かって諸共に身を投げると、うめき声をあげて待ち構える地獄の亡者の群れに飛び込んでそのまま見えなくなった。
さて唐の国では代々の王朝が滅びる時、雌鳥が刻を告げると言われている。栄華を極めながら慢心増長の果てに悲惨な最期を遂げた高麗屋の顛末を哀れんで、大阪の町ではしばらくこんな戯れ歌が流行ったという。
かうらいや、せんばの鴨が刻を告げ
おそまつ